杉並合気会
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師範の横顔


2004年7月25日発行の雑誌「合気道探求」に載せられた加藤師範のインタビュー記事です。

武道は人に教わるものではない

- 先生が合気道を始められたきっかけからお聞かせください。

加藤:なにか武道をやりたいなと思っていました。たまたま私の母の知り合いの方で占いをしている方がいました。その方が開祖と懇意にされてまして、占ってもらったところ「合気道がいいだろう」ということになって。何気なく始めたという感じです。昭和二十八年頃でした。思い出といいましても、夢中でやっていたということくらいですかね。強い方も多くてキツかったです。

- 開祖の稽古で印象に残っていることをお聞かせください。

加藤:技について、細かいことは何もおっしゃいませんでした。教わるというよりも見て覚えたといった感じです。といってもまだ半分もできていないのでしょうが…。神様みたいな存在ですから、吸い込まれるような感じでしたね。手をとったときなんかに。開祖のお背中を指圧させていただいたこともありました。押すと跳ね返ってくるようで、ものすごく弾力性がありましたね。そういう時にいろいろなお話をしてくださいました。

- どのようなお話しですか?

加藤:「武道というのは神様から授かったもの。人間が作ったものではない」そして「武道というものは人に教わるものではない。白分でやるものだ」というお言葉です。最近、なんとなくわかるようにはなりましたが、当時はサッパリ。「はいそうですか」と聞いていただけです(苦笑)。
 こんなことがありました。当時、開祖を囲む会が本部道場で定期的に開かれていました。その日は開祖の大事なお客様も見えていて、開祖の気の入りようも普段と違うんですよ。私は受けをとらせていただいたのですが、投げられて自分の足が天井の方に向いているのが見えるくらいの投げでした。頭は打ちませんでしたが、受身どころではありません。おそらく入身投げに近い形で投げられたのだと思いますが、本当に怖いと思いました。でも、そういうことを体験できたのが大きな財産になっています。今でもそうした開祖のお姿をイメージしながら稽古をしています。教わるというよりも、自分で鍛える。だからこそわかったのだと思うのです。自分で勉強して覚えたことは忘れませんが、人から頭ごなしに「こうでなければダメだ」と教えられたことは、みんな忘れてしまいました。私が素直でなかったということもありますが(苦笑)。
 どの合気道の先生もそれぞれでやり方や考え方が違いますよね。開祖が一つの型にはめなかったからだと思います。だから個性のある方が育ったんじゃないですか?開祖は「柔よく剛を制する。あんなものはウソじゃ。剛よく剛を制する」とおっしゃったこともありました。柔よく剛を制する、剛よく柔を制する、剛よく剛を制する、柔よく柔を制する…考えてみれば、全部間違いではないんですよね。状況によって違うわけで、どれも必要なんです。一つのことにこだわっていらっしゃらなかったのでしょう。

百聞は一見にしかず

- 指導上で、説明のときに注意されている点はございますか?

加藤:とにかくやってみなさいと言うだけです。後はやりながらですよ。口で説明してもわからないでしょう。言葉というのは便利ですが、やはりやって見せることが大事です。教えるとなると「こうやらなければダメだよ」と決めてしまいます。その方が楽なんですよ。どうしても口が多くなる。
 例えば力で倒すのではないということにしても、その感覚をやってみせて、やらせてみせることです。それで教わる人がどう感じるかです。そのうえで強くなりたいというのであれば、自分で自分を鍛えなさいと言います。試合がないわけですから、指導者が押さえつけたってやらないでしょ?
 百聞は一見にしかず。やはり開祖の技を見せていただいたというのが大きな財産ですね。教わったというよりも、見て学んだというのが実感です。指導者は実際にやってみせて、素晴らしいものだと相手に感じさせることが大事なんじゃないかな。最初に本部道場にご挨拶にうかがったときに、偶然、開祖が稽古をされているところを見せていただきました。なんとなくですけれど「これは一生やらなければならないな」と思いましたもの。

- 開祖がよく用いられた言霊(ことだま)についてはどのように渚考えですか?

加藤:お腹の中から声を出していると気持ちが出るんじゃないかな。私も勉強しなかったわけではありませんが、あまり研究しすぎて言葉の遊びになってもね。それにそういう話をするためには、白分が神様みたいな顔になるくらいでないと…。不自然でしょ。まだ悟りきれていない人間が神様みたいな顔して(笑)。自分が発した言葉を自分の技で表現するのが武道家です。言葉が先行して言葉にしばられてしまうと、自分が自由でなくなってしまう場合があります。

つつみこむ強さ

- 合気道における「強さ」についてどのようにお考えですか?

加藤:いろいろあるんじゃないですか?
相手を倒すことも強さですが、一つのことを持続させることや、人と仲良くすることも強さです。そういった総合的な強さだと思います。体を鍛えて人を倒す強さを目指す方が簡単なのかもしれません。和であるとか、結びといったかたちで強さを与えるということはまた違うものです。その方がもっと大変だと思いますし、もっと強くなければならないと思うのです。人間的な大きさで相手を包み込んでいくような強さでなければ、合気道の強さではないと思います。「合気道とはなにか」という自分の世界観を持つことが大事なんじゃないですかね。争わないというのであれば、なぜ争わないのか?というところまで考えないといけません。
 もし組討ちのような格闘技であれば稽古法そのものを変えなければならない。合気道は組討でも格闘技でもないから、お互いに磨きあい高めあうという稽古法が成り立っているのです。もちろん争わないから弱くていいということではありませんよ。強いからこそ争わない。本当に強い人は争わないということです。
 やはり開祖を囲む会での話しですが、時代小説の作家が何人か集まって、開祖とお話する機会がありました。そのときに作家の人たちが「先々の先」とか「後の先」と剣について話をしているわけです。すると開祖は「合気道にそんなものはない。最初から勝つんじや」と言われました。全体を包み込むような強さ、一つにするような強さ、勝ち負け超越したような価値観をお持ちでした。
 吉祥丸道主もそうでした。ものすごく厳しい先生だったと思います。特に人を見る目、感覚は厳しいものがありました。冷たいという意味ではなくてね。そのうえで個性の強い先生方をすべて認めてしまった。そこが素晴らしい。白分と違う合気道をやっている人を認めるのは難しいですよ。よほど人問が大きくないとできません。それも強さでしょうね。技が強いとかというのとは違う強さがあるわけです。

自分で自分を鍛える

- 最後に、会員のみなさんに対してメッセージをお願いいたします。

加藤:私は内弟子ではありませんでしたし、仕事もありましたから、一日中道場にいるわけではありません。ですから自分で鍛えて、白分で稽古をしなければなりませんでした。例えば、木剣や杖を振ったりと、やり方はいろいろあると思います。本来、稽古とはそういうものではないですかね?
 本当に個性を出したかったら、とにかく一人稽古をやることです。特に若い時は肉体の限界、倒れるぐらいまでやりこまないとダメですよ。そのなかで自分の考えや世界観を生み出していく。そうするうちに人に伝えられる、何かが生まれるのだと思います。白分自身を鍛える。鍛えるなら自分でやりなさい。私自身の目標であり、みなさんへのメッセージでもあります。
 合気道は、つきつめれば信仰だと思います。宗教という意味ではなく、なにかを信じ続ける、求め続けるとい意味でね。そのなかで白分で白分を鍛え上げていく。私は開祖、そして開祖の言葉を信じています。今でも開祖は私のなかに生きています。そういう気持ちで稽古を続けていけば、自然と信仰的になっていくのだと思います。ういうことがないと、肉体的に強い弱いの次元で終わってしまいます。
 争わないで伸良く楽しくやりましょう。みんなで一緒に稽古をしましょうという感じです。指導というのはあまがり好きではありませんし、私も我が強いですから(笑)。私の場合、教えるいうよりも、それぞれが自分の稽古をする伸間という感じですね。
 開祖があるとき「爺に弟子は一人もいない。弟子はいないけれども同行の土は大勢いる。いっしょに道を極める仲間がいる」とおっしゃいました。親鸞も同じことを言っています。私、この言葉が好きなんですよ。いっしょに稽古をやっていきましょう。

加藤 弘(かとう・ひろし)
杉並合気会会長合気道八段
昭和十年三月二十四日東京都出身


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